<前回記事:熊本県菊池市の地域活性化に向けて~可能性を強く信じられるようになった原点~#1【福田政隆】>

ウェブやマーケティングの専門家として活躍をする一方で、自身の生まれ故郷である熊本県菊池市で地域活性化に向けた積極的な取り組みをはじめている福田政隆さん。

前回は、生まれ育った熊本県菊池市での幼少期の思い出や、「分析・リサーチ・実行・改善」のフローによって可能性を最大限に引き出すことの重要性について語ってもらった。

連載第2回目の今回は、大学進学後に待ち受けていた挫折と葛藤の日々や、それを乗り越え起業、そして新たな挑戦をしていく中で感じたことなどについて詳しく聞く。

 周囲の大きな期待を背負い大学へ進学

高校卒業後は地元の熊本を離れ、水球のスポーツ推薦で、東京の有名体育大学に入学しました。

私は、幼い頃から水泳を続けてきて、高校から始めた水球でも結果を出していたため、大学進学時は、周囲からの期待を感じていました。卒業後は地元に戻って、母校の教師として水球の指導がしたいとも考えていたのです。

地元である熊本を離れ、水球の推薦で入学した大学は、当然ながら全国の高校から選ばれたエースたちが集まってきているわけです。熊本での高校時代とは比べものにならないほどのレベルの高さを、入学直後から感じていました。

しかし、小さい頃から競泳で結果を出してきたため、とにかく泳ぐスピードが早いのが私の武器でした。地元高校の水球チームでは、周囲のスピードが追いつかず、パスがなかなか来ない状況がよくあったほどです。

一方で、大学チームのトップに君臨する日体大のチームでは、カウンターの際に私の目の前にピンポイントにパスを出してくれたため、なんとデビュー戦である仙台大学との試合で、いきなり4得点を挙げることができたのです。

この活躍は周囲を驚かせ、試合相手である仙台大学の監督が出身校をたずねてくるほどでした。大学1年生としては、すばらしい活躍だったのです。

周囲からの評価と葛藤

そして、なんと大学ナンバーワンを決める、大学生最大の大会であるインカレの決勝メンバーに、1年生から2人選出された中の1人として選ばれることができたのです。

日体大では、4年生最後の大会の決勝のみ、監督ではなくキャプテンがベンチメンバーを選びます。当時のキャプテンは、卒業後に海外のプロリーグに進むなど、日本水球会のパイオニア的存在の方で、私にとっては憧れでもありました。

高校時代、水球の全国大会への出場もかなわなかった私にとって、その方にメンバーとして選んでもらえたことは、大変な喜びであり自信も与えてくれました。今でも実は密かに誇りにしています。

その時は知りませんでしたが、監督からはプレーはもちろん、頭もよくまとめ役もできる人物だとかなり評価していただいていたようで、「近い将来、大学カテゴリーの日本代表キャプテンに指名したい」と日体大の監督から、わざわざ親に手紙が送られていたほどだったそうです。

ただ、華々しい活躍の一方、自分の中で徐々に葛藤が生まれ始めました。

「こんな強い選手たちの中では、いくら頑張ってもかなわない・・・」

どんなにきつい練習をしても、日本代表にはなれない・・・」

いつしか、こんな思いがたびたび頭に浮かぶようになっていたんです。私自身は、徐々に自分で自分を追い込むようになっていきました。今考えると、自己評価が低かったのだと思います。

小学校の頃から、常に自分の可能性を信じ続けて頑張ってきた水泳や水球。悩みながらも、諦めずに徹底的に結果を追い求め、努力し続けてきた私は、この頃、徐々に自信を失い始めていました。

大きな挫折によって人生の岐路に

そんなある日、事件が起こります。大学の寮生活をしていた私に、同じ部屋の先輩から、一本の電話がかかってきました。

遠征先からの電話だったのですが、大学のレポートを提出し忘れたので、後輩である私に、寮の部屋の中でそのレポートを探してほしいというのです。そして、そのレポートの場所は「先輩の彼女」が知っているからと。

先輩に頼まれたら、後輩である私は断れません。私は女性の入室は禁止されているにも関わらず、寮の部屋で「先輩の彼女」とともに頼まれたレポートを探し始めました。

その時です。いつもはほとんど来ないはずの水球チームの監督が、なんとこの日に限って部屋にやってきたのです。私は、女性を寮の部屋に無断で入室させた張本人になってしまいました。そして、監督からその責任を追求され、「大学を辞めるか」「丸坊主にするか」の二択を迫られました。

私は、それまで心の中で、ギリギリのところで繋ぎとめていた細い糸のようなものが「プツリ」と切れるのを感じました。そして「辞めます・・・」と言って、なんとそのまま熊本の実家に帰ってしまったのです!

監督も、まさか本当に辞めるとは考えてもいなかったと思います。後から聞くと、私への選手としての期待度は、かなり高かったそうです。でも、もう自分の中では限界でした。というより、優秀な選手たちに囲まれ、ハードな練習環境をこなす中で、いつしか自信を失ってしまったのかもしれません。

幼いころから好きだった言葉、「可能性」を、自分自身に感じられなくなってしまった瞬間でした。それまで常に「確実に結果を出す」ことを追い求めてきた私にとって、人生で初めての大きな挫折。

地元の人の期待を背負って上京した私は、実家のある熊本に戻っても、もうどこにも居場所はありませんでした。

人生の転機と新たな挑戦

大学も水球も辞めて、実家には居場所がなく、仕事もせずに知り合いの家に居候するような生活をしていたある日、姉から1本の電話がかかってきました。定職にもつかず、人生の方向性を失っている私を心配して、航空自衛官の試験を受けるようにアドバイスしたのです。

「このままではいけない・・・」と、自分でも心のどこかで感じていました。そして、試験を受け、晴れて合格。航空自衛官として沖縄で働くことになりました。

沖縄での生活は充実していました。航空自衛官として働くことにやりがいも感じていましたし、周囲からの期待も感じていました。一方で、縁あって仕事のかたわら、沖縄県の水球チームを指導する機会にも恵まれました。

毎日、自分の目標に向かって懸命に努力を続ける選手たちに刺激を受け、いつしか「自分もまた新しいことに挑戦したい」と考えるようになっていました。そして、ずっと興味があった「まちづくり」についての知識を深めようと、琉球大学で公共経済学を学び始めたのです。

日本の地域活性化などについて研究してみたいと思ったのは、やはり出身地である熊本県菊池市の影響が強かったと思います。航空自衛官として働いていた沖縄から、熊本の実家に帰るたびに増えていく商店街のシャッター。年々地元で高齢化が深刻な問題となっていくのを肌で感じていました。

自然や人の魅力に溢れ、幼い日々を過ごした地元、菊池市の活気を取り戻すために、自分が何かできることはないだろか・・・と考えるようになっていったのです。大学では、地域活性化のための市区町村合併などをはじめ、様々な事例研究や新しい試み、手法などについて学びました。

また、社会経済政策に成功していると世界中から今注目されている北欧での経済財政の運営モデルについては、とても興味をもちました。財政難については、高齢化に並んで地方の共通の課題となっていて、地方での財政効率化は、持続可能なまちづくりを実現していく上で欠かせない視点となっているからです。

公務員を辞めて起業

大学を卒業したあと、大学院でもまちづくりについての研究を続けている中、公務員として航空自衛官を定年までずっと続けていくことに大きな迷いを感じ始めました。

10年後、20年後の自分の役職も仕事内容も、給与まである程度予想できてしまう人生が、私には物足りなく感じてしまったのです。

「このまま、先が予測できる安定した人生よりも、もっと新しいことに挑戦してみたい」と思うようになっていたのです。

大きな挫折や葛藤を乗り越えて、ふたたび自分自身や未来への「可能性」を信じ、チャレンジすることに踏み出そうとしていました。

そしてたまたま、知り合いが縫製業で起業するための準備をしている時に私もお手伝いをすることがあり、それがご縁で10年間務めた航空自衛官を辞め、小さな縫製会社の経営をスタートさせたのです。

想と現実のギャップ

10人前後の縫い子さんを抱える小さな縫製会社でしたが、起業初期からPORTERなどの製品が有名な「吉田カバン」や、パリコレクションに出るようなブランドとも取引をさせていただき、充実した毎日を過ごしていました。

しかし一方で、起業前は「経営者になったら気苦労も減って自分のペースで仕事ができるはず・・・」と想像していたのですが、現実は、一流ブランドの下請け会社として、取引先に気を遣いながら、精神的な負担を感じることも多くありました。

そんな矢先、取引先から一本の電話がかかってきました。それは、納品数が大幅に足りないという連絡。確認してみると、企業としてはあってはならない初歩的なミスでした。

急いで不足分の製品を納品する必要がありましたが、運悪く年の瀬で、縫い子さんたちは全員休暇中でした。

私は腹をくくり、一人で朝から晩までミシンに向かい、ただひたすら作業をしなければならなくなったのです。

オンラインビジネスへの転向

「起業して大きく稼ぎ、家族との時間も大切に過ごせると思っていたのに休みなく働き続ける俺ってなんなんだろう・・・」

「経営者になって自分のやりたい事が実現できると思っていたけど、元請け会社には気を遣うばっかりで精神的な自由が全くない・・・」

一人でミシンに向かって、昼夜関係なく必死に不足分の製品を縫いながら、こんな思いばかりが頭に浮かび、心が折れそうになっていました。

その時です。「ザクッ」という音とともに、指先に激痛が走りました。心身ともに限界の中、睡眠不足も重なって指をカッターで切り、4針を縫う大怪我を追ってしまったのです。その後、なんとかすべての製品を納品することはできましたが、自分への自信は、完全に失いかけていました。

そんな時、縫製会社をしながらコツコツ続けていたインターネットビジネスが軌道に乗りはじめたのです。

場所も時間も選ばず、固定費もあまりかからないなど、初期投資のリスクも少ないオンラインでのビジネスは、縫製業で苦戦していた私にとって、とても魅力的で大きな可能性を感じました。そして私はここから、オンラインビジネスを本格的にスタートしたのです。

そして、インターネットを活用することで、様々な可能性を広げることができるだけでなく、新しい価値を生み出していくことができることに気づくことができました。

<つづく> 次回は、熊本県菊池市の地域活性化に向けて〜故郷の熊本へ戻り子育て・ビジネス、地域貢献を両立〜#3 【福田政隆】